読書感想 : 『逃げるは恥だが役に立つ(9)』

 

『逃げるは恥だが役に立つ(9)』 海野つなみ 講談社 (2017/3/13)

恋愛と結婚は地続きであると考えられています。

私たちの社会は、戦後のある時期から恋愛の延長上に結婚を置くようになっています。恋愛の行き着く先に結婚があるとみる。恋愛と結婚は地続きにつながっていると考えるわけです。恋愛をテーマにした映画、漫画等の作品の多くは、こうした社会常識を前提に創られているといってよいと思います。

恋愛と結婚は地続き、ではない。

恋愛と結婚は本当に地続きなのでしょうか。

 

恋愛を定義するのは難しいですが、相手と一緒にいたい、つながっていたいという熱情が恋愛のコアにあると言えると思います。相手と一緒にいる瞬間瞬間に幸せを感じ、その瞬間瞬間をかけがえのないものと感じる。一緒にいること自体が目的となっているわけです。そこに理由はありません。理由はないが惹かれ合う。理由はないが一緒にいたいと思い、一緒にいる時間を少しでも長く持とうとする。

 

理由がないということは合理性がないということです。打算もありません。そのため、損得勘定で考えたら、周りから見てやめておいた方がよいと思える恋愛もあります。ですが、当事者にとってはそれは至福の瞬間。恋愛は盲目です。

 

恋愛にも打算が入るのではないか、と言われるかもしれません。確かにその通りですが、恋愛のエッセンスを突き詰めて考えれば、やはりそれは相手に対する熱情にあると思います。

 

文学は物事の突き詰めた形を提示します。恋愛をテーマにした文学作品では自殺が取り上げられることがあります。その理由は、”将来”を考え打算的になってしまうことで、今の恋愛の純粋さが失われるのを避けたいという思いから、その瞬間の熱情を冷凍保存するために、登場人物たちが自殺を選ぶということではないでしょうか。 

 

続いて結婚について考えみます。結婚とは概ね、ある二人が”将来”を考えてする行為と言ってよいと思います。現在の社会では、その”ある二人”は”恋愛”関係にあることが大半でしょう。ですが、”将来”を考え出した時点で、その”恋愛”はすでにもう理由のない状態ではいられなくなる。将来を考えた時点で、すでに打算が入るからです。結婚は打算によって産まれる合理的行為です。結婚は生活という目的のための手段です。結婚は恋愛とは違い、それ自体が目的の行為ではありません。

 

少し時代を遡れば、結婚当日にはじめて顔を会わせて夫婦になるということも珍しくありませんでした。政略結婚という言葉もあります。結婚とはそもそもが、家の存続等を含めた生活保障という果実を得るための手段でした。

 

まとめてみます。

 

恋愛・・・熱情的行為 合理性なし 打算なし それ自体が目的

結婚・・・合理的行為 合理性あり 打算あり 生活のための手段

 

恋愛と結婚は、このように区別して考えることができると思います。恋愛と結婚は異質であり、その間には断絶がある。つまり地続きではない。

『逃げ恥』は、結婚の打算性を正面から取り上げた実験的作品です。

『逃げ恥』の作者は恋愛と結婚についてこのように考えているのではないでしょうか。

 

作者は本作で、恋愛と結婚を地続きと見る常識に反し、それらを切り分け、結婚だけを取り出します。そして結婚は打算の産物であるとの認識のもとに物語を展開させます。本作は結婚の打算性を正面から取り上げて、それを恋愛漫画の形に落とし込んだ実験的作品だと言えます。

みくりちゃんは最後まで合理性の権化でした。そしてそれは、結婚の合理性、打算性を肯定し、積極的に受け入れる作者の姿勢のあらわれです。

みくりちゃんは、結婚を徹底的に利用し尽くそうとします。結婚は打算の産物であり、結婚が二人がウィンウィンになれるなら成立するものであるとの認識があるからそうできる。みくりちゃんは、恋愛と結婚が別物であることを知っています。だから、家政婦業契約という打算感全開の結婚を受け入れることができるわけです。

 

恋愛と結婚を連続的に捉える今の日本社会で、みくりちゃんみたいにできる人っているのだろうか。結婚の打算性を頭ではわかっても、なかなかここまで割り切れる人はいませんよね。

 

みくりちゃんって合理性の権化なんですよね。

 

仕事上でお付き合いする人は過度に合理的であっても問題ありませんが、プライベートで過度に合理的な人って、ついついめんどくさいと感じてしまいます。言い換えるなら「小賢しい」。みくりちゃんを「小賢しい」と思わずにいてくれるひらまささんは稀有な存在だと思います。というか、ひらまささんもみくりちゃんと同じ合理性の権化で「小賢しい」ゆえに、みくりちゃんを「小賢しい」と思わずに済んだのではないかと思えます。

 

この点、ポジティヴモンスター五十嵐さんとみくりちゃんは一緒ですよね。五十嵐さんの場合、男漁りという方向ではあるけれでも、徹底して合理的に振舞うという点ではみくりちゃんと同じ。五十嵐さんの場合は作中ではっきりと周りからめんどくさがられるところがみくりちゃんとは違いますがw

 

さて、本巻は最終巻です。

 

みくりちゃんは、第1巻から一貫して変わることはありません。合理性の権化のままです。合理的ならざる一面を見せることはありません。コンサルの仕事を手にするという変化はありますが、内面的な成長という点での変化はありません。みくりちゃん、ひらまささんの関係についても大きな変化はありません。そのため最終巻になっても、主役の二人に絡めた話の盛り上がりはありません。初めの頃と変わらず、二人の間では合理性全開のやりとりが続きます。当初は目新しさを覚えて二人の会話を楽しんでいましたが、ことここに至っては、二人のブレない合理性の権化っぷりに感心するばかりでした。

 

でもこれがよかったんですよね。おそらく恋愛的馴れ合いを落とし所とすることも作者には可能だったとは思います。そうすることで、やっぱ恋愛あっての結婚だよね、といった常識に沿った読後感を与え、読者をスッキリさせることもできたはずです。

 

ですがそうはせずに、結婚の合理性、打算性を守った。実験的態度の徹底であるのはもちろんですが、恋愛とは異なるそうした結婚の性質を肯定的に受け入れることを、静かに、しかし力強く作者が主張しているように私には思えました。

恋愛漫画としての盛り上がりは、ゆりちゃんと風見さんの担当です。

本作のような実験的作品のテーマにとっては、みくりちゃんとひらまささんは格好の登場人物なのですが、二人のやりとりはあまりに淡々としており物語の盛り上がりという点では物足りない。

 

その点は別のカップルが補ってくれています。

 

恋を諦めた女と恋に飽きた男。そんな恋愛に後ろ向きな男女が、最悪の出会いから徐々に互いに惹かれあい結ばれていく。

 

ゆりちゃんと風見さんの物語は、恋愛モノの定番でしょう。みくりちゃんとひらまささんの淡白さが目についてきた話の終盤以降は、この二人が話の主役ではないかと思えてきました。

 

というわけで、本作は先に触れたように実験的作品だとは思いますが、いわゆる恋愛モノの盛り上がりを求める読者への配慮も行き届いた作品でもあります。