読書感想 : 『オリンピックと商業主義』

 

『オリンピックと商業主義』 小川勝 集英社 (2012/6/20)

本書はオリンピックの収支構造の変遷を追ったものです。

本書は、近代オリンピックの始まりとなった1896年アテネ大会から、2012年ロンドン大会までの、オリンピックの収支構造の変遷を追ったものです。数字を挙げて一つ一つの大会の収支構造を丹念に分析、考察し、オリンピックに「商業主義」が侵食していくプロセスを明らかにしていきます。

 

著者はオリンピックの商業主義化を肯定するでも否定するでもない中立の立場に立って、淡々とオリンピックの経済事情を記述していきます。また、中立的な視点から、オリンピックを巡る様々な政治的、経済的、社会的背景、具体的に言うならIOC、各競技の国際競技連盟、開催都市の組織委員会、各国政府、スポーツメーカー、スポンサー、メディア、アスリート等利害当事者それぞれの思惑と利害当事者間でのやり取りを丁寧に説明してくれています。おかげで私は、オリンピックが時代とともに商業主義化していく必然性のようなものを理解することができました。

商業主義化の行き過ぎによって、オリンピックの理念はないがしろにされています。

オリンピックの商業主義化については中立的に論じる著者も、商業主義化の行き過ぎについては問題があると考えているようです。(それを著者は「商業主義化」とは区別して「商業主義に陥る」と表現しています。なお、著者は商業主義化の行き過ぎのはじまりをソウル五輪としています。)

 

現在のオリンピックにおける「商業化の弊害」とは、突きつめて考えると、営利団体ではないはずのIOCが、収入を極大化しようとしているところにある。

 

IOCは非営利団体です。収益を極大化することが目的ではありません。それにもかかわらず、いまやIOCは少しでも多くの収益を得ようし、結果として、巨額の放映権を払ってくれるテレビや巨額のスポンサー料を払ってくれるスポンサーに大きな発言権を与えることになってしまっているようです。

 

テレビやスポンサーの言うことは絶対です。彼(女)らは、テレビ放映に都合の良いように競技ルールの変更(野球のタイプレーク、バレーのラリーポイント制など)を求めたり、放映時間の調整のために競技スケジュールすら変更(アメリカの視聴者の都合を優先)させたりします。競技者そっちのけです。大人の事情に競技者は振り回されます。競技の質そのものの低下を招くことにもなります。

 

「アスリートの崇高な祭典」という言葉に集約されるオリンピックの理念がないがしろにされているのです。

 

オリンピックの格式を守って開催できるように企業の影響力を抑えるには、テレビ放映権料や公式スポンサーの協賛金を抑える以外にないだろう。現在ほど高く売らなくてもオリンピックは開催できるのだから、企業からの収入が下がっても問題はないはずなのだ。

 

オリンピックの理念を守るというIOC本来の義務を顧みず、必要以上に収益をあげたがる。いまやIOCは営利団体になっています。

不明瞭なお金の動きが出てくるのは、行き過ぎた商業主義の帰結です。

日本だけでなく世界各国で、オリンピックにまつわる不明瞭なお金のやり取りがニュースを賑わせています。直近では、東京五輪招致委員会が2億3千万円の裏金を使っていたのではないかとの疑惑が持ち上がっています。

 

著者は、本書を公表された資料だけに基づいて書いたようです。自制を働かせてか、裏金等の不明瞭なお金についての言及は本書にはありません。そのため本書の感想の枠をはみ出てしまうのですが、そうした不明瞭なお金の動きが出てくるのも、行き過ぎた商業主義化によって一大利権と化したオリンピックの現状を考えればさもありなんといったところでしょう。

オリンピックの商業主義的拡大路線は今後も続きます。

著者の問題提起も虚しく、オリンピックは今後も商業主義的拡大を続けていくのでしょうか。言い換えるなら、オリンピックの理念と現実の乖離をさらに大きくしていくのでしょうか。あるいは、それにはなんらかのブレーキがかかり、どこかで理念回帰へと方向転換することになるのでしょうか。

 

ところで、舞台裏はどうであれテレビ放映してくれるおかげで世界中の視聴者はオリンピックを夢中になって楽しむことができます。テレビ放映優先の競技日程を組まれたり、ルール変更を迫られたりするとはいえ、商業主義化のおかげで競技者たちは注目され大金を手にすることができます。IOCはじめオリンピック利権にありつける人々も大きな利益を手にできます。

 

理念を凌駕するおいしい現実があるわけです。

 

報道から伺える限り少なくとも東京五輪までは拡大路線でいくように見受けられますが、ま、そうなりますよねw